少女祈祷中...

案内する鳥でございます

神武東征の段で、熊野の山奥へ入り込みました軍が苦しんでおりますと、高倉下という者が使いを遣わして一羽の烏を送り、これが道案内をつとめた、と記されております。八咫烏、三本足の烏でございます。

ただ、この記事を書き始める前にひとつ注を置いておきたいのでございます。以下の読みは、文献と伝承を並べた私の解釈でございまして、遺跡や文書で確かめた事柄ではございません。そのうえで、この鳥がなぜ熊野で、なぜ烏なのかを、私なりに整理してみたいと思います。

東征の地図を引いてみます

物語の道筋は、日向の地から始まります。筑紫へ出て、豊の国を通り、瀬戸内を船で東へ進み、浪速の地へ着き、そこから陸路で南の熊野へ入る。そして宇陀を経て吉野へ至り、畝傍の白鳥陵に宮を立てる、という流れでございます。

ここで読者が気づいておりますのは、海路が一通り順調だったのに、陸へ入った熊野でいきなり軍が道に迷い、苦しむ、という点でございました。海は神話の中で道として扱われ、山は障りとして扱われている。そしてこの障りの只中で、烏が降ってまいります。道案内が要るのは、道が無い場所だけですわ。

三本足の設計

三本の足を持つ烏は、日本の発想ではございません。「日中に烏があり、月中に蟾蜍がある」という観念が古い中国の書物に見えますし、漢代の鏡や石刻、壁画に三足の烏が描かれております。高句麗の古墳壁画にも、日と月を示す鳥と蟾蜍が出てまいります。太陽を烏が孕む、という発想は東アジアで共有されておったのでございますね。

日本の神話は、その天上の記号を、山の中で道に迷う人間の物語へ下ろしてまいりました。宇宙論の実用化、と申しますか、日を支える鳥が、行軍の先達になる。この転用の大胆さが、私は大好きでございます。

しかも神武天皇は天照大神の子孫とされる系に乗っております。日の神の子を、日の鳥が導く。本文がわざわざ三本足と書いているのは、この鳥がただの烏ではなく、日の記号そのものだと示すための標識なのでございます。

熊野という場所

案内先の熊野が、普通の山ではございませんのでございます。那智では滝そのものがご神体とされ、本宮はもとは川の中州のあたりに鎮していましたのち、現在地へ移っております。速玉は港と川口に近く、海の神の性格を強く残しておる、と整理されてきました。

中世的には、この三地を熊野権現としてまとめて祀り、本地と権現の対応も立てられております。修験道の修行の場としても、吉野の山と熊野の谷は結ばれ、後三年の道のりのうち「発心門から先はもうこの世ではない」と言う作法まで生まれました。さらにこの地から南へ、海へ出てあの世へ渡るという発心の形も残っております。

つまり八咫烏が現れた場所は、生と死の境界を通過する修行の地だったわけでございます。烏の役割は道案内というより、あの世との境を通す資格を持つ先導者だったと読みますと、物語の筋が一本通りますわ。

山岳の神は人を導く

この読みは、神武東征の話に限ったものではございません。山中で迷った者に神が道を示す、という型は、修行譚や霊験記に繰り返し出てまいります。日本では、道に迷う事が、信仰の出発点として物語化されてきたのでございますね。

熊野の烏は実在のカラスが祀られ、九寸鳥と呼ばれると聞いております。神話の鳥が、生き物の鳥と神使の鳥に分裂したまま、どちらも現存している。社頭に烏の絵が掲げられ、参拝者の写真にも必ず入る。神話の残り方の一例として、これほど手頃な例も少ないのでございます。

現代まで飛んでいる烏

日本サッカー協会の紋章にも八咫烏が居ます。「日本代表の守護神」とでも申しますような顔で、ユニフォームの上を飛んでおるわけですわ。神話が生活の語彙として生き延びた量には、こういう場面に出会うたびに驚かされます。

ただし、こういう近代的な利用と、古い祭祀とのあいだに直接的な連続を見ませんほうがよい、とも私は考えております。紋章の烏は設計された記号でございまして、信仰の系譜とは別々に生きております。混同して「八咫烏は古くからサッカーの神です」と言い出します人がおられますれば、そこは静かに訂正させていただきたいところでございますわ。

八咫という名前の解釈でございます

「八咫」の読み方は、分かれております。大きさの単位から来たという解が古いところのようですが、断定は避けさせていただきたいのでございます。「咫」は人の指幅に基づく長さの語で、それを八つと申しますのは、並外れた大きさの意と解されますのよ。普通の烏より大きい鳥が空から降ってきた、というのが素直な絵でございましょう。

三本足と相まって、この鳥は「ただ者ではない」という表示になっているわけでございます。神話が異界の存在に記号を付けるとき、たいていは体の数か大きさを変える。八咫烏はその両方を持っておりますから、読者は一目で人間側の者でないと分かる。そういう設計の丁寧さが、私は好きでございます。

軍が苦しむと書かれている行

熊野の段で気になるのは、道に迷っただけでなく、軍が苦しむ、と書かれている点でございました。山の中の長距離行軍で飲み水と食料が尽き、病む者が出て、士気が落ちる。そういう状況の描写と読みますと、烏だけでは片付かない応援が天から来ている事に気づきますのよ。

本文が送りましたのは、実は三種類でございます。道を開く鳥、武器を持つ神使の高倉下、そして兵でございましょう。案内と武力と人員が一度に配られる。つまりこの話は、遭難の救済譚としてよく出来た構成になっております。山の中で軍勢が、神によって立て直される、という筋でございます。

宇陀から吉野、そして陵へ

案内は熊野で終わりません。宇陀では兄の話が現れ、吉野へ至り、山を降りて畝傍の地へ着く。やがて初代の陵は白鳥陵の名で伝わりますのよ。烏の導いた道が、そのまま初代陵への道として地名に残っているわけでございます。

導いた先が陵でありますと、この話は葬礼の道行きにも読めてまいります。山越えは死の通過でございまして、陵はその通過した者に付く標識。熊野と吉野と橿原が、一本の物語の筋で結ばれている事になります。私が歩きとうございますのは、この最後の区間でございまして、山を下りて平野へ出る景色を、自分の目で確認してみとうございます。

私がまだ歩いていない事

正直に申しますれば、私は熊野の山をまだ歩いておりません。記事にできますのは、文献と図と、人の書いた案内まででございます。ですから今回は、書ける範囲のことだけを書いたのでございます。

それでも次は、中辺路を何日かに分けて歩きたいと思っております。川声を聞き、滝を見、烏の絵の掲げられた社を訪ね、山に入る手前と入った後で、言葉の選び方がどう変わるかを自分の目で確認したいのでございますね。歩きましたら歩いた記事を書かせていただき、そのときは文献の筋と地面の筋を、分行で突き合わせてみたいと存じております。

結びにございます

案内する鳥の話でございますのに、書いておりますうちに、道とは誰かが開いたものの事なのだと、何度も思い至りました。国を譲った契約が道を残し、山が境界として残る。八咫烏が飛ぶのは南でございまして、南は死と再生の方角です。私はその方角へ、まだ一度も歩いておりませんわ。