迎えに行って、逃げ帰る話
古事記で伊弉諾命は妻の伊弉冉命を追って黄泉へ下り、戻りませんかと誘います。妻は、私があなたが来る道を恥丘として作ってしまいました、もう帰れません、と言葉を残し、黄泉の神と相談して戻れるようにしますから、どうぞお待ちください、と申し添えて奥へ入ります。
しかし夫は待ちきれず、髪に差した櫛の歯を折って灯りを取り出し、部屋を覗いてしまいます。夫が見ましたのは、腐って蛆のわいた姿でございました。妻は恥入って追いかけ、黄泉醜女が追いたて、夫は剣を抜いて走り、千引の岩を下ろされて道を塞がれ、そこで妻が「あなたのような方を殺してしまう」と脅す、という流れでございます。私はこの文章を学部で出会いましてから五年近く読んでおりますのに、読むたびに、この夫はずるい、と思ってしまいますわ。
そして夫は帰ったあと川で身を洗う。この禊のときに諸神が生まれ、三貴子が誕生します。物語の流れはたいへん有名でございますが、私が毎回気になるのは、黄泉の中に裁く者がいない、という一点でございます。
帳簿も審判も現れない
中国の死後の観念は、泰山府君という体系を整えていきました。名簿を司る官がいて、いつ誰が取られたかが記録され、罪の重さに応じた処遇が後世の説話に語り継がれ、この発想は日本の陰陽道や朝廷の祭祀にも入ってまいりました。死者を数え、簿に記し、区別する。官僚機構が死後も続いているわけですわ。
ところが記紀の黄泉には、名簿も審判も罪の集計も現れません。伊弉諾命は問い質されもしない。追われるだけで、咎められない。あそこは裁かれる場所ではなく、汚れている場所でございます。人が死ぬと汚れる、汚れたら出る、出たら洗う。道徳の計算が一段も入っていないのでございますね。
黄泉醜女が「あなたのような方を殺してしまう」と申しますのも、罪に対する刑罰ではございません。恥入った者の感情の爆発で、夫もまた「待てない」性分だから逃げただけ。この物語には、誰も正しいことをしていません。そこが私は好きでございます。
穢れと罪は別の道具
「けがれ」と「つみ」を混同しますと、日本の古代の死生観は分かりにくくなります。大祓のことばに「人の命の尽くること、天の常道を以てせず」と申しますような、罪の説明は確かにございます。しかし黄泉の話で問題になっておりますのは、道徳ではなく接触でございまして、死体に近づいた、見た、灯りを照らした、という一連の行為です。
だから解決も接触の処理になる。水で洗う、塩を使う、道を塞ぐ、桃の実で追手を退ける。贖いではなく清めでございます。審判でしたら判決を待てばよろしいのですが、穢れでしたら手順を踏むほかない。私はこの違いが、後に日本の祭祀全体を形作ったのではないかと思っております。
死後の制度が薄い所の、葬式の重さ
裁きが無いのに、葬送はずいぶん重いのでございます。火葬の段取り、位牌、菩提寺、法事の年数、香典の額、寺へ納める費用、戒名の等級。死後の処理がこれだけ複雑だという事は、あの世の都合ではなく、この世の場が問題にされている、と読むべきでございましょう。
誰が遺族の列に加わり、誰が先に席を立ち、どの家が何度目を負担するか。村ではそれが死活の議題で、記録も残っております。死後世界の制度が薄い社会ほど、葬儀の制度が厚くなる。この非対称を、私は近世から戦前期の京都の記録で追ってみたいと存じております。
千引の岩と、今の風景についての説明
千引の岩は、男と女を永久に引き裂く境界として登場いたします。本文はその場所を黄泉比良坂と呼び、今も人はそこを通れない、と申します。ここには古い語源譚の型が見えておりますのよ。今は通れない、という現在の状況を、神話の原因で説明する。
この型の文章は日本の古い地理の説明に繰り返し現れ、後の風土記の写法とも響き合っております。神話が過去を語っているように見えて、実は現在の禁止事項に根拠を付けているわけでございます。死んだ者へ会いに行く道は塞がっている、という説明がないと、葬送の実務が成り立たない。私はこの岩を、制度の境界標として読みたいのでございます。
追われた側のことば
夫が逃げましたあとの、妻の言葉も気になる所でございます。この一言が祟る予言なのか、単なる恨み言なのか、後世の祭祀の説明なのか、読み手は分かれてまいりました。
私が見ておきますのは、この場面で妻に裁きの権能が与えられていない、という点でございます。怒るだけで、何も取り戻されない。国も夫も戻らない。ところが後世はこの段を根拠に、死は後ろから来る、という説明をしてまいります。力を持たない側の言葉が、千年たつと力を持つ。神話の受容史としては、たいへん面白い見本でございますね。
桃が止めるもの
追手でございましょう、夫は桃の実を投げつけて退けます。桃には魔除けの力が認められ、後世の年中行事や魔除けの習俗へ残ってまいりました。ここで注意したいのは、効いておりますのが剣ではなく実である、という事でございます。
刃で斬っても追いは諦めず、果物を投げますと止まる。暴力より清めの物が効く、という順序が先に立っているわけで、この順序は禊の話とつながっております。黄泉から帰って水で洗う、という次の段と同じ論理でございまして、記の編者はここでも一貫して、浄めの技術で問題を処理しているのです。
黄泉という語の出自でございます
中国では黄泉は本来、地の泉水を申すのでございまして、死後の世界を指す語になるまでに過程がございます。古い春秋の伝に見える、母との再会の誓いの話では、墓穴を掘って泉に達すれば黄泉で会った事になる、という巧みな解釈で誓いが解決いたします。泉水が、死後の世界の地名になったのでございますね。
日本の記紀が受けたのは、そのようにして転化した語でございまして、審判の機構までセットではございませんでした。語を借りても制度まで借りなかった。この取り込みの仕方が、この記事の主題そのものでございますわ。
註を書かせていただきます
黄泉比良坂だの根堅洲国だの、地名の読み自体が論争の的でございますし、この記事に載せました読みも、すべて私が教わった読みでございます。
また、「記紀の黄泉に審判の観念が無い」と書きましたのは、古代の文本についての話でございまして、日本の民間の死生観全体についてではございません。仏教が入ってからは地獄の審判が本格的に輸入され、十王の裁き、餓鬼、畜生、名簿の発想が生活の中へ深く入りました。葬送が重いという私の観察も、むしろその後の話でございまして、裁きの欠落は古代の特有の状況であった、という留保は必ず必要だと思っておりますわ。
中国人として読む不都合
最後に、私の立場の話を少しだけさせていただきます。中国語を母語にしております者がこの話を読みますと、「黄泉」という語がすでにあちら由来でございますので、どうしても比較へ引き寄せられてしまう。比較しすぎますと、記紀の黄泉を、中国の体系の不完全な版として見てしまう危険がございます。
それは違う、と私は思っております。裁きの無い死後世界は、欠陥ではなく選択でございましょう。あの世で清算しない社会は、この世の場の整理に手間をかける。日本の神話を読み、日本の葬送を読み、その配分の偏りを感じ取るのが、私のこの分野での仕事だと思っておりますわ。