少女祈祷中...

十年で都を捨てる

桓武天皇は延暦三年に奈良から長岡へ、同じく十三年に長岡から平安へ都を動かしました。造りかけた都を十年で捨てるのは、律令国家としては費用も人手も膨大な決断でございます。そして通俗的な説明は、決まってこう言いますわ。怨霊が怖かった、と。

私はこの説明を嫌いではございません。ただ、これ一本で語られるのが困る。祟りと呼べる人だけが政治を動かせる、という状況のほうが、むしろ本題だと考えておりますので。

祟ったとされた方

太子に立てられました早良親王が、のちの事件に連座して流罪となり、配流の途中で命を絶たれました。無念の死であったと、当時は多くが見ておりました。そして遷都のあと間もなく、天皇の后と皇弟が相次いで亡くなり、皇子も病に伏せたと伝えられております。

身内の不幸が続きました折に、人々が祟りを疑いましたのは、無理のない事でございましょう。律令の官僚たちのあいだに、この不幸は早良親王のたたりである、という話が出た、と記録には見えます。やがて都のなかで、無念のまま死んだ者を祀って騒がせぬよう頼む儀式が公のものになってまいります。九世紀の半ば、神泉苑で営まれました御霊会が、そのかたちとして知られておりますわ。

鎮める技術として

この種の祭祀は、日本独自ではございません。荒ぶる神を祀って鎮める、という発想自体は、古事記の頃から見える古い手法でございましょう。怨霊を恐れる心と、神として待遇して手なずける制度は、実は同じ行為の二つの顔でございます。

九世紀の半ばよりあとの朝廷の行事に、その発想が繰り返し現れます。社を立て、位を戻し、祭りを定め、名を飾る形で、怒っているはずの者を鎮座させる。菅原道真の件が有名でございまして、大宰府で亡くなったのち官位が戻され、社が置かれ、朝廷の守護的な祭祀へ昇っていきました。北野の天神がそれでございます。

鎮める行為は、祟りを認める事と同時に、祟る側を自分の制度の中へ組み込む事なのでございます。この二面性を理解しませんと、怨霊信仰はただの恐怖譚に見えてしまう。そこが私は残念でなりません。

別の理由も並んでいる

ただし、怨霊だけで都が動いたと書きますと、私は少し物足りないのです。長岡の地は水辺に近く、洪水の心配がつきまとったと申されておりますし、造都の費用は既に嵩んでおった。造営の実務を握っておりました藤原種継が暗殺される事件もございます。政治の中心が物理的にも人的にも整わなかった、という説明は十分に立つのでございます。

さらに桓武天皇には、自分の権威を強くしたい動機もおありになったはずです。旧都の仏教勢力との距離、自身の系譜の位置、律令運営の実務、東への関心。理由はいくらでも並べられますわ。怨霊はその並ぶ理由のひとつとして史料に書かれ、後世の解説では主役になりました。

怨霊という政治の言語

私の興味は、実際に祟ったかどうかにはございません。祟りと呼べた人だけが、人を咎められる、という言語の存在自体でございます。

早良親王の無念を口実に、官人が処罰された動きが出たと伝わっており、私はいつもここで背筋が冷たくなります。恐怖は私人の感情でございましょう。しかし祟りは公の主張で、相手へ責任を負わせる手段になる。誰の死が祟りと認められ、誰の死が黙認されるかを決められますのは、生きて権を持つ者でございます。怨霊が政治的なのは、そのためでございました。

千年後の地図に書き込まれている

そして「祟りを鎮めるために社を立てる」行為は、社を永遠に残します。京都の上京に御霊神社が、西に北野天満宮が居て、夏の祇園祭は今も御霊の鎮魂から出ている。平安遷都の恐怖は、千年後の市の地図と暦にまで書き込まれているわけでございますね。

私はこの街へ院生として参りまして、自転車で這些社を通過しながら、都が移った理由の話を折々思うております。生活の利便では説明のつかない位置に、千年前の恐れの跡が置かれている。これが歴史の街というものの実体だと、私は思っておりますわ。

暗殺と捜査という別の恐怖

怨霊の話を書くときに、私が必ず添えたい事件がございまして、造営の実務を握っておりました藤原種継が暗殺された一件でございます。実行の背景と関与者の捜査は都の政治を長く揺すりましたし、後には早良親王の関与が論じられる事にもなりました。

ここで私が注目したいのは、人が恐れていた相手でございます。死んだ者の祟りか、生きている者の陰謀か。記録を読みますと、朝廷はこの二つをしばしば同じ袋に入れて扱っております。無念の死を祟りと呼びますと、その祟りを起こさせただれかの責任も自動的に発生いたします。捜査は怨霊の鎮魂と表裏で、処罰は供物の一種のような顔をしている。ここが古代の政治の暗い所でございますね。

御霊会という行事の中身

九世紀の半ばに神泉苑で営まれました御霊会は、疫病の流行と結びつけられて伝えられております。都で人の死が続き、人々が理由を探しますと、無念の死者の怒りに行き着く。そこで都の外の神々を招き、鉾を立て、楽を奏し、宴をもって鎮める、という行事が整えられてまいりました。

面白いのは、鎮め方が慰問ではなく接待の形をしている事です。怒る者を持て成して機嫌を直してもらう、という発想は、後の祇園祭の形にも引き継がれております。祇園の鉾が今も七月に並びますのは、この行事が千年以上続いたからでございまして、恐怖の処理が都市の祭礼として定着した好例でございますわ。

祀る費用が続くという事

怨霊を鎮める政策は、一回で終わりません。社を保ち、祭りを続け、費用を負担する組織が要る。朝廷が祭祀の等級を定めて費用と人を出す仕組みを持たない事には、祟りの恐怖は行政として処理できないわけでございます。

だから私は、怨霊信仰を心の問題として片付けたくないのです。鎮める行為には予算が付き、役人が付き、文書が残る。早良親王のような立場の方の名が、後世の社の由緒や行事の記録に載ることになります。恐怖が行政になりますと、歴史に材料が残るのでございますね。

今の京を歩きますと

上京の御霊神社へ参りますと、平安の都の北のはずれに当たる場所である事が身にしみます。都の果てに祀りが置かれた、という配置は、地図の上で非常によく分かりますわ。北野へ歩きますと天神の社町が広がり、七月の祇園では鉾が通りを埋める。

私が京都の院生になりました理由のひとつは、この三つの場所が、同じ日の自転車で回れてしまう事でございます。千年前の恐怖が生活圏のなかに点在している。授業で習った語彙が、門松の脇に有る。そういう街で住む事が、私の研究の一番身近な資料なのでございます。

逃げられたのか、という問いへ

見出しに上げました問いへ、まだ答えを持っておりませんけれど、方向だけは書いておきたいのでございます。都を移しました後、祟りの話は消えませんでした。新しい都でも人は病み、人は死に、人は怨む。だから桓武天皇の朝廷が逃げましたのは、怨霊からではございません。怨霊に説明を付け替えてもらえる場所から、別の説明が要る場所へ移った、と申し上げた方が正確でございましょう。

政治が恐怖で動くとき、恐怖の名前を変える事がいちばん手っ取り早い。都の引っ越しほど大がかりな名前の変更は、そうはありませんわ。だからこそ記録に残り、私が今、千年後の地図を読みながら勉強できるわけでございます。

註を書かせていただきます

后と皇子の病と早良親王の祟りを結ぶ記述は、伝記側の書き方に強く依存しております。この記事では「伝えられております」を度々置きましたのは、私がこの部分を一次資料で詰めきっていないからでございまして、詰めるましたら、どの記述が当時の記録で、どれが後世の編集か、分行で書き直したいと存じております。

長岡の地勢と水害の件につきましても、発掘の報告をまだ読み切っておりません。怨霊から都は逃げられるか、という見出しにつけてしまいました答えは、まだ出しておりませんので、その点はご容赦くださいませ。