少女祈祷中...

私が今見ておりますもの

研究の題材にしておりますのは、戦後の京都で老舗が町家を保ち、あるいは手放し、店をカフェや小売へ組み替えていく過程でございます。三条のあたりや、島原の古い街路に入りますと、格子と土壁を残したまま内装をまるで入れ替えた店が並んでおります。

あの中へ席を頂きますと、客席は気持ちよく、床は古く、奥の台所は完全に新しくなっております。空調が効き、給湯があり、客用の手洗いが整っている。壁の太い柱の見せ方だけが、意図的に昔の顔をしている。この不連続な感じが、私の見たいものでございますわ。

「伝統」が行政の対象になったのは半世紀前

伝統的建造物群保存地区という制度が文化財保護法へ入りましたのは、昭和五十年の事でございます。今から半世紀あまり前です。日本ではそれ以前、「古い町並み」は法律上の守るべきものとして名乗りようを持っておらなかったのでございますね。

京都市の場合、平成十年に多勢のボランティアを巻き込みました町家の実態調査が実施され、その成果をもとに再生の方針がまとめられ、平成十七年には基金が設けられ、外観の修景へ助成が出るようになりました。さらに条例が整備され、今も審議会で保全と継承のあり方が論じられております。

つまり今日「京都らしい」と写真に映る景色の多くは、保全の制度ができてからの半世紀のあいだに、選び直された景色なのでございます。古いものが残った、だけでは説明が付きませんわ。

淘汰したのは景観ではなかった

町家が失われた理由を、開発のせいでございましょう、と一括るのは簡単でございます。ところが生活していた方々のお話を聞こうと歩きますと、まるで別の理由が並びます。冬が寒すぎる、窓が隙間風、断熱を入れようとしますと土壁が消える、耐力が心配、火が怖い。そして何より維持費と相続でございます。

畳の間を掃除する人が居なくなり、修理の宮大工が高齢で、庭木を世話する人が次の世代に居ない。借家だった町家は、建て替えの判断が貸主と借り手のあいだでまとまらない。残らなかったのは美的な敗北ではございませんで、経済と人手の敗北でございます。

ここを市民の言葉で書かない限り、民衆史はただの風景批評になってしまう。私はそう考えておりますので、制度史よりも先に、暮らしの収支と人手を追いたいのでございます。

助成は外側へ、変更は内側へ

修景の助成は、通りの見える面に集中いたします。格子、瓦、土壁、軒、虫籠窓。内側は自由度が高い。カフェに組み替えますと、厨房と給排水と空調と電源が入り、客は外観の古さと内装の快適さを同時に手に入れる事になる。

店側から見れば、これは制度に合いながら採算を取る最良の形なのでございます。外観の保存を要求する行政と、快適さを要求する客のあいだに立って、店主が設計を折衷している。補助金の申請書類には、その折衷が図面と写真の形で残るはずでございまして、私はそこを見たいのでございますね。

客が買っているもの

率直に申し上げるなら、客が買っておりますのは「昔の暮らし」ではございません。再編集されました京都らしさでございます。古い床に新しい椅子を置き、昔の帳場を写真撮影の背景にして、昔の台所のあった場所に業務用の機械を置く。編集の跡は明るく、快適で、居心地がよい。

そしてその編集の労力のうち、相当の部分は店員の労働でございます。古い建物の維持は新築より高くつき、段差に注意が要り、客の目線に合わせる掃除の頻度も増える。ここを記事に書かない者が多いのでございますが、私は民衆史の側におりたいので、労働の話を省きたくございません。

何を見たいのか、何を聞きたいのか

今考えております材料は三組ございます。改装の設計図と施工写真、補助金の申請書類、そして町内とのやり取りの記録でございます。設計図と写真を並べますと、何を変えて何を変えなかったかが一番正直に出ます。申請書類には、行政が何を保存したがっているかが書かれております。

インタビューでは、三つの質問を回したいと思ってございます。改装を決めたきっかけ、家族が反対した箇所、そして営業を始めてから近隣に何を言われるようになったか。三番目がいちばん面白いと考えております。「京都の顔を守ってくださってありがとう」と言われるのか、「客が勝手に入ってくる」と言われるのか、その両方が同じ店主へ返ってくるはずでございますから。

町家という建物の作り

少しだけ建築の話をさせてくださいませ。町家は間口が細く、奥へ長い。通りから土間が奥まで抜け、これを通り庭と呼びます。採光と通風は小さな坪庭に頼り、上部には防火と目隠しを兼ねたうだつが上がる。格子は風を通しながら外からの視線を落とし、二階の虫籠窓は荷のやり取りも兼ねております。

この作りは、暮らす前提で最適化されたものなのでございます。人の通りと物の運びが一本の土間に集中し、家族の気配が奥まで届く。逆に申しますと、客を中へ入れる商売に組み替えますと、動線がすべて作り直しになります。便所と階段と厨房と避難の口。坪庭を塞ぎませんと光が入らず、塞ぎますと風が止まる。改装の設計図を開きますと、この四つの板挟みが必ず見えてまいります。

昭和の解体の波

町家が失われました時期を、私は年表で押さえたいのでございます。戦前の火災、空襲、戦後の疎開と還る人の問題、道路の拡幅、高度成長期の建て替え、そして貸家としての採算の崩壊。このどれをとっても、「京都の顔が嫌われた」では説明が付きません。

特に手強いのが、貸家だった事だと私は考えております。住む人が借り手でございまして、壁一枚直すにも貸主の承諾が要る。貸主は遠方に居て、固定資産の評価は上がる一方、家賃は古いまま。改装の意思決定が二方に分裂しておりますから、何もされないまま老朽が進む。やがて更地にすれば資産として動く、という判断が働く。この連鎖が、景観の敗北の正体でございますわ。

京都という顔の歴史

「京都らしさ」と呼びますあの感覚も、調べてまいりますと、かなり後から整えられた顔でございまして、明治の案内記や大正の観光ガイド、戦後の修学旅行のコース、映画の街並み、そして映像作品の撮影地、という具合に、時代ごとに見せる側が作った顔が重なっております。

カフェの店内で「古い京都らしい」と感じさせられます景色は、その複製作業の最新の層にすぎません。私はこの層の厚さを記事に書きたいのでございまして、単に本物が偽物へ替わった、という嘆きは、民衆史の文章にはならないと思っております。

住む人が減り、使う人が増える件

町家の所有者、居住者、事業者は、今日ではしばしば別人でございます。住まなくなった建物を、誰かが借りて使い、別の誰かが所有している。保全の議論は「残す」を目標にしておりますが、残した建物の中で何が起きるかは、また別の話でございます。

民宿や物販への転用が増えたこの十余年で、近隣の関係は随分変わったと聞きます。古い建物が救われた喜びと、生活が壊れた不満が、同じ一件の建物に同時に載る。私はこの同時性を、どちらか一方の物語に整理したくはございません。

註でございます

この記事に載せました制度の年号は、公文書の表記を順に追って確認したものでございます。ただ、改装の実例や聞き取りの内容につきましては、まだ本格的な調査を始めておりませんので、現時点では研究の途中の観察にすぎない旨を、お断りさせていただきたいのでございます。

歩いて聞いて回りました記録は、また別の記事に書かせていただきます。そのときは写真と書類番号を添えて、何が分かって何が分からなかったか分行でお示しできるかと思います。町家で席を待ちながら、私はいつもそう思う次第でございますわ。