先に線を引きさせてください
この記事を始める前に、はっきり線を一本引かせていただきます。二次創作の設定は、歴史の証拠ではございません。私がここで書きたいのは、その作品が元にしたと見える側の話、つまり諏訪には柱が二本分の記憶がある、という件でございます。
どちらが面白いかで申しますれば、私は両方が好きでございまして、だからこそ、ごちゃ混ぜにしないために、先に線を引かせていただく次第でございます。
諏訪には二柱分の記憶がある
信濃の諏訪の地には、もともと洩矢神という土地の神が祀られておりましたと伝えられております。のち建御名方神がこの地へ入り、力競べをいたしまして、洩矢神が負けて服属した、と語られるのでございます。
祀りの中心は建御名方神の側になりました。諏訪大社の社号と祭神の筋は、建御名方神を主として整っており、后として八坂刀売神が並びます。ところが面白いのは、負けた洩矢神の名が消えなかった事でございます。その神を祀った家、守矢氏として名残り、この家は上社の神長官という、祭祀の実務を握る地位に名を連ねておりますのよ。
つまり社ではなく、家のほうが負けた側の名前を今へ伝えていた。この配置の仕方が、私は非常に政治的だと思っております。
消えない証拠
御柱祭には、洩矢神の名残とされる作法が見えますし、守矢家による洩矢神の祭祀は明治のあたりに途絶えたと伝えられております。どちらが主でどちらが従かという順序が、祭りの段取りのなかに石のように残っているわけでございます。儀式は文書の原稿より長生きする、と言う事ができますね。
中世にまとめられた神社側の伝承集成には、この競い合いの様子が詳しく語られております。本地と権現の対応も立てられ、諏訪明神の性格が仏教の語彙でも説明され直されました。勝った側の系譜が何度も書き増やされる一方で、負けた側は祭祀の実務者として留め置かれる。書きたくなった歴史と、消せなかった記憶の両方が、同じ社に載っているのでございます。
層として読む
建御名方神は古事記の国譲りの段で、高天原の使いに抗って諏訪へ退いた神とされております。前の記事で触れました通り、大国主命が国を譲る契約には、抗った子のための座席も用意されていた。その座席が諏訪で、しかもその先には、もっと早くから土地に居られた神がおられた。
ですから諏訪の記憶は層になっております。上から読めば建御名方、その下に洩矢、さらにその下に山と湖の祭祀。一つの社を前にして、支配の記憶が三段重なって見えるわけでございますね。私はこういう層の読み方を、文献と儀式の突き合わせでやっていきたいと思っております。
服属した者が司る者になる不気味さ
ここからが、私のいちばん気になる所でございます。負けた神の子孫が、負けた側の祭祀を司ったまま、勝った側の社で高い地位を持つ。これは好意的に読めば包摂ですし、冷たく読めば、押さえた側が押さえられた側の祭祀を管理下に置いた形でございます。
どちらの読みが近いかは、現地の文書に当たらねば決められません。ただ、勝者が敗者を殺さず、役を付けて留めた、という設計の荒々しさは、国譲りの契約と同じ性格のものでございましょう。神話の寛容は、制度としてはかなり計算高いのでございますね。
裏返してみせた側
二次創作の守矢神社では、後から来た神が山へ入り、土着の神と力比べをする、という骨格がそのまま使われております。そして負けた神の名が、神社の名前そのものになっている。史実側の「社ではなく家に残った名前」を、作品はさらに裏返して、組織の名前に据えたのでございます。
この反転が面白くて、私はつい文献を引っ張り出したくなります。ただし繰り返しますので、作品の設計の妙と、当地の祭祀の歴史は別物でございます。どちらが正しいかを争わせる記事にはしたくございません。私が知りたいのは、人が古い話を使うとき、どの部分を引用して、どの部分を動かすのか、という作法の方でございますね。
蛙と蛇で読む古い解釈
この競い合いを、蛙と蛇の象徴で説明しようとする読みが古くから見られます。水の恵みと湖の守りという、生活に密着した二つの性格が、両者の神に割り当てて解釈されてきたのでございます。私はこの種の読みを、史実の復元としては信用しすぎてはいかんと思っておりますが、当地の人々が自分たちの祭祀をどう理解していたかを示す材料としては、たいへん面白いものと見ております。
伝承の断片が祭りの所作に残ると申されますのも、そういう解釈の層が儀式の上に固まっているからでございましょう。湖と山と田の水が、そのまま祭祀の語彙になっているわけでございますね。
役の分担が記憶になっている
勝った側の神を祀る社と、負けた側の神を祀った家とのあいだには、祭祀上の役の分担が定まっておりました。実務を握る地位が家として残り、その家の名が洩矢神の祭祀を担う家だと伝えられてきた。ここが私のいちばん面白い所でございまして、服属の記憶が、神の話ではなく、職場の分担として残っているわけでございます。
職場として残りますと、争いも起きます。どちらの家の誰がどの儀式で何をするか、という問題は、実務上の利害でございますから、簡単には片付きません。中世から近世にかけて、諏訪の祭祀をめぐって各家の間に訴訟同然の争いが起きたと伝わっており、勝者と敗者の図式が、そのまま職掌の紛争へ転化しているのが見えます。怨霊の話が、やがて書類の争いになるわけでございますね。
明治が区切りの年になる
守矢家による洩矢神の祭祀が明治のあたりに途絶えた、という一件は、単なる家の断絶ではございません。明治の国家は神社の序列と祭祀を整理し、神官家の世襲的な特権を制度の外へ追い出しました。各地で古い祭祀が途絶え、あるいは合併され、あるいは民間の習俗へ格下げされたのでございます。
諏訪の件も、その大きな整理の一部として起きていると見るべきでございましょう。私が記事に年号や官製の用語を安易に並べないのは、この整理が地域ごとにまったく違う仕方で進行したからでございまして、当地の断絶の理由を、一般論で説明したくないからでございます。
荒ぶる神の方へ
もうひとつ、書いておきたい事がございます。諏訪の神は、古くから激しい性質で知られております。国を譲る段で抗った、という記憶と、祟す神として鎮められた、という記憶は、日本の神ではしばしば同じ一つの顔になります。
だから「負けた側が残った」のは、穏便な処理だったからではございません。負けたまま怒っており得る者を、祀って位を与えて留めた、というのが実態に近いのでございます。怨霊を社に封じる技術は、都の政治にも当地の祭祀にも同じ形で現れております。この件は、次の都の話でまた触れさせていただきたい。
註と、今後の誓いでございます
私自身はまだ諏訪へ参って御柱祭を見ておりませんし、神社側の解説と研究書の読みが一致しているかどうかも、詰めきっていないのでございます。本地と権現の対応、神長職の性格、祭祀の断絶の時期についても、文献によって言い分が揃いません。
次にこの件を書きまするときは、現地のパンフレットと研究書を並べまして、どの記述が伝承で、どちらが推定で、どれが私の推測か分行でお分けできる記事にしたいと存じております。神話の記事を書く者は、自分の材料の等級を隠してはいけませんので。